2011年10月30日日曜日

工学博士をとる

 森林の勉強と平行して学位論文を書くことにした。苦労もあったが、2年で工学博士が取れたこれも今まで論文を発表し続けてきた甲斐があったからだろう。いろいろな人に助けられたが、まず女房に感謝である。植生と斜面安定の論文である。たぶんこんなことをしているのは日本でも珍しい。しかも、環境と防災が共生できる前衛的な論文だと思っている。
 この論文から、多くの発展できる課題が見える。鉄根打設工法などに発展したものもある。まだまだ面白い分野やアイデアは多い。技術士とは違った角度から技術を見るには学位もよいのではないかと思う。

2011年10月28日金曜日

地盤の履歴書

  最近、宅地地盤の相談を受けることが増えてきた。特に、東日本大震災後には、液状化や谷埋め盛土という言葉が注目を浴び、かつての火砕流や土石流のように、一般用語になりつつある。地盤という言葉もキーワードとなってきた。うれしいようなつらいような複雑な気持ちである。今年の台風の被害では深層崩壊や天然ダムがキーワードとして追加された。
 このような自然災害から身を守るには、自分がいる地盤がかつてどうであったを知ることが重要で、旧版地形図を使った地盤の履歴書を作ったり、わかりやすく解説する必要性を感じている。

2011年10月26日水曜日

森林部門をとる

  技術士の応用理学と建設部門の相談にのりながら、その本質は環境地質学であったようだ。その中で、応用理学と建設部門の技術に密接に関係している斜面の安定問題と環境保全の代表格のような森林がどのように係わるべきかを長年研究していた。わかりやすく言うと、斜面の安定問題は、地盤の地質や工学的強度、水理学によって研究されており、地表にある植生は無視されることが常である。反面、植物や森林などの生物をを扱う研究者は、地質や地盤には無頓着で、生き物の研究や環境の保全に熱心であることが多い。両者の接点は唯一、地盤表層の土壌という感じであった。これらの専門分野のニッチには面白い課題が多い。今回のニッチ領域は防災と環境保全という大きなニッチでやりがいがある。
 10年以上をかけて続けていたこの研究は、その都度が学術論文に掲載していた。これらをまとめると、学位論文になるだろう。技術士の幅を広げる意味で、森林部門の技術士にチャレンジした。今までやったことのない林業の勉強を平行してやらないといけない。試験では、植生と斜面安定の研究や実績を書くことにした。結果は、何とか合格した。
 境界領域は広い。私のキーワードは環境地質だ。

2011年10月24日月曜日

総合技術監理部門をとる

 技術士にはいろいろな専門分野がある。各分野が専門性は高まる一方、分野を越えた総合的な技術が求めるられるようになってきた。そこで、技術士会では総合技術監理部門を新設することになった。その経緯を技術士会から聞いていたので、この部門の始まった年に受けることにした。試験内容や、試験のやり方も試行錯誤の状態で、2次試験の面接官もどこか落ち着かないような感じであった。受験者と面接官の技術力も接近していたのではないだろうか。
 今までやってきた技術監理や技術開発を書いて、話したところ何とか合格することができた。専門バカにならないためにも、総合技術監理の技術士は役に立つに違いがない。応用理学や建設の専門分野を越えて広い技術監理を考えないといけないと思う。

2011年10月23日日曜日

建設部門をとる

  応用理学部門の技術士として、いろいろ業務に携わってきた。その中で、周辺技術への関心や必要性を感じていた。建設工事では、周辺の生活環境にいろいろな影響を与えることが多い環境地質学の技術はこれらを解決するのに本当に役立つ。たとえば、建設現場周辺の地盤が沈下した際、その理由を地盤の地質構造で解決した。さらに、臨海部の工場の地盤が隆起した際、その原因を地盤内の特殊な鉱物にあることを突き止め解決した。トンネルや地盤を掘削すると周辺の地下水が低下することも多い。そうすると近くの井戸が涸れることになる。建設事業に係わるいろいろな相談事が寄せられる。これらの経験をまとめ、技術士の建設部門(建設環境)の技術士を受験した。
 応用理学の受験経験が生かされたのか、合格することが出来た。これで、建設部門の本格的な相談にものれるようになった。自分の得意分野が広がり、少し満足である。

2011年10月19日水曜日

仕事をしながら、研究発表

 学術学会への参加で増える人脈、頼りになる技術者・研究者、お互いの技術力の助け合いや研鑽、人が技術力を育てる
 会社の職員も増えてきた。やっとやりたいことが見えてきた気がする。社会の構造も変わってきて環境地質学が求められているような実感がわく。まだまだ頑張るしかない。

2011年10月17日月曜日

頼りになる妻

 会社を1人でやるのは大変だ。安定した企業から、独立することに文句を言わなかった女房は、率先して会社を手伝ってくれた。2人で会社を始めたというべきだ。経理・総務・業務の整理やトレース・図面の色塗りと何でもこなす女房は頼りになる。仕事がない時もつらいが、忙しくなると企業にいたときより厳しい。徹夜もするし、連続して出張も多い。
 忙しいときは、私の友人や女房友達まってくれた。狭い作業部屋がすぐにいっぱいになり。もう少し大きなところに引っ越すことになる。

2011年10月15日土曜日

技術士だけではやっていけない

 始めのうちは、小さな仕事をこつこつと、そのうち解析や大きな仕事も増えてきたが、技術士だけでは仕事はとれない技術士あって当然、その技術士で何が出来るか何がやりたいかが問われる。
 環境地質学の創造、技術で勝負するといった以上、社会に打って出る。いろいろな学会での研究発表、論文掲載、学会の委員会への参加を決意したはじめての学術学会ではその学会に馴染むのは難しく、疎外感もあって簡単ではなかったが、徐々に技術者の知り合いは増え、参加する学術委員の数も増え続けた。現在は、所属する委員会は、56程度、毎年57編程度の学術発表や、年23編の論文を書き続けている。最近では講演や大学での講義もある。情報は発信しないと集まらない。身をもって感じたことである。

2011年10月13日木曜日

環境地質を創業し、一からやり直し

 20年前、これからの技術の動向を考え、環境地質学をやりたくて、会社を創業することにした。まず、1ルームマンションで1人で始める。3月末に辞め、4月1日から始める。失業保険はいらない。頼りは、技術の力と良き仲間である。独立技術士の始まり。
 事務所開きに集まってくれた良き仲間がいた。そのなかでも優先的に仕事をくれた方や相手先を紹介してくれた方、そして、仕事をくれた前の会社の仲間や上司、後輩などには感謝している。今でも付き合いが続いている。反面、開業挨拶にいくと手のひらを返して門前払いの会社もあった。
 ある学術学会では、会社を辞めたので、所属していた委員を辞めますと話したとき、会社で委員を選んだわけではない、人で選んでいるのだから残ってくださいといってくれた。技術の世界がある。頼もしい。企業内技術士の時には、学術学会の活動はあまり出来なかった。1つの委員会の委員だけで、学術発表も少なかった。これで、目が覚め、その当時、誰も関心がなかった環境地質学の情報発信もしたい。
 もちろん、技術士会にも入った。

2011年10月11日火曜日

企業内技術士って

  大きな企業には、多くの技術者がいて、その頂点にいるのが技術士だ。技術士の中でも分野が分かれていたり、経験や技術力の差がある。人をみて仕事を頼まないといけないが、技術士なら基準内の対応は可能だ。ただ、企業にいるとどうしても会社の名前で仕事をするので、弁護士さんや医師のように自分の名前で仕事をしているという意識が少なくなる。大きな企業だと人間関係も複雑で、将棋の駒のように動かないといけない苦労がある。その反面、社内には優秀な先輩技術士や他分野の技術士がいて相談に乗ってもらったり、共同で作業し大きな成果を出すことができる。社内でどのように業務を進めるかは、本人の意思と周りの人たちの関係できまる。
 もともと技術士は、独立して仕事をするように作られたのであるが、現在は、企業内技術士が圧倒的に多い。よいことかよくないことかよくわからない。私も企業内技術士として出発し、そのころは技術士の登録はしたが、技術士会の会員にはならなかった。現在、独立して技術士会の会員になっている。技術士会にいろいろと問題点はあるが、個人の技術力を売っているのであるから、医者や弁護士のように登録者全員が技術士会に入るべきと思う。

2011年10月9日日曜日

子供がなつかない

 ほとんど出張で家に居なくてまだ小さな子供が、時たま家に帰るとおじちゃんまた遊びに来てねというのです。仕事も大変だが、家庭環境を維持するもの大変だ。企業内技術士も楽ではない。次回は、技術士が企業内技術士と独立技術士がある説明をして、企業内技術士の苦労とよいところなど話してみたい。

2011年10月7日金曜日

地方から東京へ

 地方から東京へ転勤、業務内容も全国的に有名なサイトが多くなった。
付き合う相手もそれなりの方である。仕事をする金額も大きくなった。ここでは、いろいろと勉強になることが多い。内容はともかく日本のトップレベルの仕事をしていることは自分の自信になる。大学院でも同じであったが、トップレベルの中で研究をしていることは、上を知ることで、ある意味余裕が生まれるということである。技術の生かし方にとって重要なことである。
 ところが、東北地方に大きなプロジェクトで長期出張となり、2年間ほとんど東京を離れた。でもストーブ、ヤマセとの戦い秋は、きのこの林にはいる楽しみ、春は、アズマイチゲ・カタクリ・ミズバショウを見ながら調査と楽しみはあったが冬は吹雪の中の現場前が見えない白鳥がうるさい。ここでは、現場の責任者になったので技術だけでなく、総務、工務、経理、営業、安全、渉外などを実践して後で独立し創業するための役立った。苦しかったけれど、技術士としての厚みを出す経験になった。

2011年10月5日水曜日

応用理学部門に受かって

  東京に来てやっと技術士の応用理学部門に合格した。暑い中の試験であったし、ほっとした。仕事をする上でどうしても欲しかった資格であるし、企業内ではもっていないと肩身が狭い。技術士になったから、仕事の内容が大きく変るわけではないが、何か余裕が出来る。技術者として自覚のできる。
 これからがどうして行くかを問われているようで身が引きしまる。技術士の応用理学部門は地質学などの知識を土木や防災、環境の問題にどう使うかの専門技術部門であり、かなり広い範囲を担当することになる。主として地質学出身者が受ける部門である。
 頑張って仕事だ。

2011年10月3日月曜日

地方での業務

 前回までは、自然災害が続いたので少しわき道にそれて災害の話になりました。豪雨災害だけでなく地震や火山噴火が起こるたびにその直後に現場を見てきました。これらの話はまたいずれすることにして、話を技術夜話本題に戻します。
 中国地方にいた際、管轄が山陰から四国まで及んでいたので、西日本の代表的な地質をほぼ見ることが出来、大変勉強になった。たとえば、地すべりでは、破砕帯地すべりの代表地の四国山地、温泉地すべりや第三紀地すべりの出てくる山陰地方、崩壊の多い花崗岩が分布する瀬戸内沿岸地域など日本を代表する多種多様な地質があった。
 山岳地のダムも多く手がけ、現在完成してるものも多い。岩盤にオープンクラックがあり苦労したもの。低角度逆断層で苦労したものなどいろいろとあった。トンネルの調査では、湧水、破砕帯、坑口地すべり、薄い土被り、周辺への地下水障害などの問題を解決してきた。空港の建設も当時目白押しで、高盛土の品質や切土の勾配など解決する課題が多い。低地では軟弱な地盤の問題、台地や丘陵地では、盛土や切土の問題がある。水資源の開発では、ダムだけではなく地下ダムや水源井戸の選定、エネルギー問題では、鉱山の地下空間再利用や周辺への汚染問題も担当した。環境問題では、廃棄物処理場の汚染など悩ましいこともあった。
 このころは、国土開発が大いに進み、それに係わるに地質や地盤の問題を解決してきた。
もちろん、防災や環境や施設の維持に関することにも係わることもあった。今でもその経験は役に立っている。
 地方での業務は、町医者のように細かく多様な相談事を解決する能力が必要で、広い知識が重要と思う。技術士としての大事な要素の1つでもある。