2011年12月31日土曜日

島根土砂災害

  20107月に島根土砂災害は、庄原土砂災害とほぼ同じ時期に起った。誘引は台風の通過に伴う集中豪雨である。日本海に面する漁村背後の崖が崩壊した。崖にはコンクリートの急傾斜対策工が施工済みであったが、その上方斜面の崩壊である。風化岩のなかに残った玉石が風化土砂と一緒に崩落した。コンクリートの対策工があると、ひとまず安心してもよいが、斜面の異常はいつも気にかけないといけないのだろう。

2011年12月23日金曜日

庄原土砂災害

  20107月に庄原土砂災害がおこった。相当量の雨がやはり局地的にふった。遠くで見ていた人が、その地域が雨雲に覆われその下が白く曇ったままであったといっていた。亡くなられた方は1名であった。やはり谷の出口の家屋である。山全体に表層崩壊が認められ、それを引き金に土石流が走っていた。地質的には興味ある崩壊形態をとっていて、少し検討してみたい。ただ、地域全体は土砂に覆われる格好になっており、高齢化の進む集落の再建は容易ではない。これを機に土地を離れる人もいるかもしれない。
 災害に強い町づくりも若い人材がいないと難しいのかも知れない。

2011年12月21日水曜日

東濃豪雨災害

 大きなトラックがらくらくと流された。20107月に発生した東濃豪雨災害のことである。水の力のすごさを感じた。ここでも、限定した地域だけが被災していた。雨の降り方が偏ってきているように思う。表層崩壊が多く、それらが土石流となり谷の出口の家屋を襲った。土石流の起こったのは夕飯時期であった。1軒のお家は、3人が亡くなり、外出中の1名だけが助かった。母屋の隣に新築した家屋である。母屋は助かったが、新築の家は谷の出口に建てたので被災した。昔からの土地の選択は災害さける知恵もあるのだろう。
 少し離れているが、もう1軒のお家は、やはり、谷の出口にあった。後ろの谷からにごった水が出てきて、木の折れる音などが聞こえたので、奥さんが避難した。だんなさんは、少し遅れて避難した。その1時間後に家は土砂に流された。災害の前兆現象をとらえて判断良く避難することの重要性を示している。

2011年12月19日月曜日

山口土砂災害

 地震災害が続いたが、豪雨土砂災害も牙を抜いた。20097月に山口土砂災害が起こった。防府市を中心とする限られた地域だ。風化花崗岩の表層崩壊が多いが、中規模の崩壊もありいずれも土石流に移化している。老人ホームの被災地はそれを象徴していた。谷の出口は土石流の危険がある。新しく建てられる建物はどうしても危険な空き地に来てしまう。昔から土地利用には知恵がある。常時と非常時の転換ができる訓練や教育が必要と感じた。ここでは、流域の砂防堰堤が多くの流出土砂を受け止めていて、溢れた土砂による災害が目立った。ハード対策は効果がある。しかし、すべてそれに頼るのは危険である。減災のソフト対応も大事である。

2011年12月17日土曜日

フナ寿司

 実家からフナ寿司が送られてきた。発酵したにおいが嫌いな人もいるが、そんなに嫌いなにおいではない。味はブルーチーズのようで大変おいしい。熱燗のお酒のつまみにはもってこいである。フナだけ食べる人もいるが、私は、一緒についてくる発酵したお米も食べている。
 健康食品なので、皆さんも是非食してください。ただし、値段はステーキより高いで、くれぐれも腐っていると勘違いして捨てないでくださいよ。

2011年12月15日木曜日

雨の中を走る

 原稿書きに疲れて、久しぶりに鶴見川を走る。夕焼けが怖いように美しい。ちょうど富士山が見える方向から東京にかけて長い雨雲が見える。雨雲の下は激しい雨が降っているようで白く霞んでいる。でもかなり遠くである。ちょうど厚木あたりかもしれない。鶴見川の堤防を道行く人も休日の夕方をゆっくり動いている。この時間帯はなんとも言えず寂しげで好きだ。日もかなり暮れかかって来たとき、ポツリポツリと雨が降ってきた。大粒だ。すぐに土砂降りになる。後ろからの風に押されて足取りが速くなる。行きかう人もあちこち散って、もう誰もいない。鶴見川は白く波打ち、吐く息も白く、雨音だけがきこえる。稲妻と雷鳴も近づいてきた。
 これも人生か、足取りはさらに早まるが、家は遠い。

2011年12月13日火曜日

猫の手足

 ペットの猫がなくなった。
16歳なので、人間に直すと90歳くらいだろう。家の中でずっとすごしていたので、世間を知らない。我が家だけが自分の世界であった。少しとろいところがあって、コンチャンと呼ばれていた。悪さをすることはなく、人見知りもしない猫だった。
 最後になくなる前は、食欲も少なくなって、前足はしかっりしていたが、後足はよたよたとしていた。猫にも手足があると思った。
 動物は足に来たら終わりだなーと感じた。

2011年12月11日日曜日

岩手宮城内陸地震

 20086月に岩手宮城内陸地震が発生した。ここでは、大規模な地すべりや崩壊・土石流が起こり、多くの人が被災した。また、地震断層が出現し、田や宅地に変位を引き起こした。山間地の地震として多くの教訓を残した。
 2011年の東北地方太平洋沖地震の際もこの付近での震度が最も大きく、ゆれやすい地盤構成の地域である。特に、火山性堆積物での大規模地すべりが象徴的であった。その後、現地は何度か訪れたが、雪解け時期の栗駒山の景観はすばらしいものがある。自然の脅威と豊かさを同時に見たように感じた。

2011年12月9日金曜日

中越沖地震

 2007年7月に中越沖地震が起こった。中越地震、能登半島沖地震に続いて、中越沖地震が発生した。すぐに現地に向かう。ここでも、内陸部の被害は少なく、被災地は海岸沿いに集中していた。
 柏崎市、刈羽村の調査から始める。路面が正弦波のように波打った場所があった、地震波が化石として残った格好である。いろいろなものがあるものだ。ここでは地盤の液状化や側方流動も発生していた。3年前の中越地震で被災したお宅が自力で家を建て替えたが、そのとき谷埋め盛り土のすべりや液状化防止のために地盤排水工(暗渠工)を施工した。このお宅は、周りの家が被災したにもかかわらず被害がほとんどなかった。対策工が有効であることを身をもって示したものである。
 また、大規模宅地の谷埋め盛り土のすべり防止の法律が出来たが、その始めての適用例が今回行われた。対策は、先にしめした地盤排水工であった。、今後の成果を期待したい。

2011年12月7日水曜日

能登半島沖地震

 20073月に能登半島沖地震が起こった。すぐに現地に向かうが、被災地に近づくまで、ほとんどのんびりした山間地で被災の形跡がない。直下型地震の典型である。地震断層付近での被災は大きいが、その影響は遠くまで及ばない。
 地震断層の近くに来ると様相は一変し、民家の倒壊・崖崩れがどこにでも認められる。道路の通行もままならない。門前町には、私の住んでいる鶴見にある総持寺の本院がある。ここでも、大きな被害が出ていた。立派な寺院であるが、屋根が大きく重たい性もあって被害が出やすかったのであろう。
 門前町から輪島市にかけての海岸沿いの崖崩れは深刻で、歩いて調査した。直径5m以上のある大きな落石が道路をふさいでいる。海岸を見ると過去の地震で落ちた巨石が多い。過去にも何回も地震を受けてきた地域であろう。輪島市周辺の海岸沿いの斜面崩壊も多いし、古い家屋の倒壊も多い。かなりの震度があったことがわかる。特に、積雪に耐えるように屋根を強化している古い民家の倒壊が多い。
 山崩れによって発生した土石流の土砂が治山ダムによってうまく捕捉され、直下の人家が助かった場所も調査した。この土石流の流下速度は、かなり遅かったようである。研究の課題になる。
 鶴見に帰ると、緑の大きな屋根の総持寺がそびえていた。

2011年12月2日金曜日

岩魚を手づかみ

 最近、クマの出そうな山の地質踏査を行った。沢を歩いていると、澄み切った川底を魚影が走る。これは岩魚だなと思い、ゆっくり追いかけ岩陰に入ったところを確認した。ゆっくり踏査道具を下ろして、岩陰に両手を押し込んだ、魚の感触が手に伝わる。ぎゅっと握りしめて捕まえることができた。大きさはなんと20cmのまあ大物である。その日は踏査が続くので、すぐに写真を撮影し、リリースしてやった。水の中に離した岩魚は、さっと逃げるかと思ったが、一度こちらに寄って来て、ありがとうと挨拶をし、川中の落ち葉の中に入っていった。
 さて、10分間の休憩であった。地質踏査を再開するが、岩魚を捕まえる際に長靴に入った水は如何しよう。一日寒い中の踏査が続く。

2011年11月30日水曜日

山の道

  自然災害時には、山の道が大切である。中越地震の際、災害調査中に地元の方にあった際、川沿いの主要な道路の大半は崩壊や冠水で通行不能となり、みんな歩いて昔からある山の道を利用していた。明治の十津川災害でもそのようなことが記載されている。
 今年の紀伊半島の豪雨災害で、十津川村長さんの意見では、主要道路の山道のトンネルは村内で一番安全な避難地になったということである。また、東日本大震災のような津波にも山の道は強い。
 土砂災害の多い我が国では、山の道を残さないといけないと思う。

2011年11月28日月曜日

中越地震

 200410月に中越地震が起こった。自然災害が続く。すぐに、現地を訪れた。現地は右往左往する人々でいっぱいで、統制がとれていない。どこで何が起こっているのか、どこが通れるのかわかる人もいない。取りあえず、勘を頼りに現場を突き進む。そのうち、崖崩れが多くなり、車の通行が出来なくなる。
 仕方がない。後は歩いていくだけである。芋川に入ると、山全体が何か変である。鉛直に立つものが少ないからだ。一般に家でも電柱でも標識でも木でも、鉛直を基本にしてたっている。それらがことごとく傾いているのである。めまいがするようだ。
 川を下ると湖になり、川がない。何のことかわからない。大規模地すべりと堰止湖の出現である。川のかなり高い対岸を歩くと川魚のオイカワが土砂上に乗っかっている。大規模地すべりが堰止湖を作るとき、川の中の魚の持ち上げたのだろう。大規模な堰止湖を見るのは初めてだ。地すべりも大きく、木が立ったまますべり、斜面とは反対の方向に傾いている。今まで研究していた表層崩壊も多い。
 中越地震の調査はそれから3年間6回も現地に足を運んだ。長い付き合いになった。この間いろいろな経験をさせてもらった。災害に強い地域づくりのヒントも多い。

2011年11月26日土曜日

水俣豪雨災害

 水俣地方は、豪雨災害が多い。過去におきな災害があり、その復旧が終わったばかりである。この時には、安山岩からなる大きな崩壊が土石流を引き起こした。幸い下に砂防堰堤があり、被害を少なくしていた。
 200410月、今回は少し離れたその北方の沢の災害であった。湿舌といわれる雨の通り道が続いたところである。地質は前と同じ安山岩がキャップロックで分布する斜面で大きな崩壊が発生した。この崩壊をきっかけとして大規模な土石流が発生した。多くの方が土砂に埋まった。実際被災した方は、以外にも沢の高台の方である。沢沿いの低地の方は夜間に避難し、家はなくなったが無事であった。沢より10mも高いところに住んでいた方の避難が遅れたのだろう。
 通常の土石流の規模なら大丈夫な箇所で、想定を越える大規模な崩壊が起こったことになる。災害のハザードマップを作るのは出来るが、実際にそれを活用して逃げるのは難しい。

2011年11月24日木曜日

想定外

 想定外ということがよく言われる。自然現象の壮大さとも取れるし、責任逃れにも取れる。想定外って何だろう。
 自然科学をやっていると、自然の大きさや未だわからないところが見える。つまり、人間の限界や自分の想定を超えることがおこるだろうといつも思っているのである。しかし、工学では、人間に必要な施設などを設計する必要がある。ここで、想定が入らざるを得ない。部材の強度はある程度予想できても、自然の外力は設定しにくい。それをえいやーと決めたとして。それが一人歩きする。いつも自然の外力はえいやーと決めたものだという理解がないと想定外の問題に落ちる。いろいろな施設の設計が、そのように決まっているので、設計者だけでなく、国民みんなが、施設の安全性をそのような想定内で作られるものだと考えていく時期に来ていると思う。
 自然に絶対や100パーセントの安全はない。当たり前のことである。そして100パーセントのものは、人間はいつか死ぬということである。

2011年11月22日火曜日

三宅島噴火

  2000年8月には、今度は三宅島が噴火した。その前から、神津島や新島で群発地震があり、その調査をやっていた。地震が続く中、島の中の調査は自転車に乗っておこなった。朝出かけた道が、帰り地震による崩壊でまったく埋まっていたのにはびっくりした。でも、自転車なので安心。自転車を担いで土砂をの上を越えて宿にかえれた。車なら、車を捨てるしかない。そういえば、崩壊した崖の調査中にも地震があり、落石等があったなー。もう慣れたけれど。神津島の道路ハザードマップを論文に掲載したが、実際に現場に行くと予想通りの災害が起こっており、不謹慎ながら少しうれしくなった。
 三宅島の噴火はその後におこったもので、群発地震と火山噴火は関連しているようだ。この噴火では、細粒の火山灰が降り、わずか時間4mmの降雨で土石流が出る有様であった。小規模ながら火砕流も発生し、全島避難となった。なんといっても火山ガスが収まらないのが復旧を遅らせた災害であった。湿った火山灰も問題で,多くの樹林も被害をうけた。
 今回の噴火は、今までにない噴火の形態で、小規模ながらカルデラを作った噴火を予想できた科学者はすくない。自然を想定することは難しい。

2011年11月21日月曜日

有珠山噴火

 20003月末に有珠山噴火が噴火した。年度末で、みんな忙しい。コンサル仲間や大学・国の研究者、ゼネコンの技術者に声をかけ、4人が集まったので翌日には現地に飛んだ。何が起こっているのか、どこまで入ったら危険か。有力な情報がない。現地の関係機関や対策本部に向かい。情報を集めた。対策本部には、よく知った火山学者が詰めていて多くの情報をくれた。可能な範囲の現地調査を実施した。
 このとき、災害地にはいってしまうと、情報は錯そうし、なかなか情報が集まらないことも感じた。ネットによる情報がこの災害を契機に大きく進化したように思う。災害地の真っ只中にいるより、ネットをみている遠隔の住民のほうが情報量が多いのである。正確で有用な情報かは別にして、そのような状況は、近年益々顕著になってきているように思う。火山噴火災害は、他の自然災害に比べ、どのように展開するか、いつ収束するか予想することは難しい。噴火調査も何度の現地に行くことになった。また、調査時に火山灰が降ってきたこともあった。危険の多い調査になることを肝に命じないといけない。

2011年11月19日土曜日

阪神淡路大震災

 1991年に起こった阪神淡路大震災についても語らないといけないだろう。当日、川崎にいて地震を感じたが、朝早くから打ち合わせがあり、茨城に向かっていた。地震情報はなかなか入ってこない。どうやら関西地方がやられたらしい。昼には全貌がわかってきて、大変な大地震のようである。すぐには現場にいけなかったが、現地を1ヶ月くらい見ることができた。神戸の周辺は、車での移動はできるが、街中はうまく移動できない自転車や単車が役に立つことがわかった。宿泊箇所の確保や食料の確保も難しい。東日本大震災でも同じような経験をしたが、大震災の時の調査はむつかしい。
 都市圏の直下型地震の被害の甚大さを痛感した。経験になった。

2011年11月17日木曜日

飛騨川豪雨災害

 1988年9月には、台風の豪雨で、岐阜県の飛騨川沿いで斜面崩壊と土石流が多発した。この地域は、たびたび豪雨災害が繰り返されているところで、以前に土石流によってバス転落事故があった箇所である。道路の点検をやっていたところであって、すぐの調査に出かけた。崩壊は表層崩壊が多いのであるが、渓流の土砂がほとんど抜け出して土石流になっていた。渓流土砂が流出しやすい地質のようである。
 それとは別に、崩壊にも特徴があった。植生にとって崩壊しやすいところがありそうだ。広葉樹より植林地で表層崩壊が多く、特に、植生管理の出来ていないもやし林での崩壊が多いことがわかってきた。植生と表層崩壊の関係を研究しようと考えるきっかけになった現場である。論文も掲載し勉強になった案件であった。
 スギ植林での崩壊があるなか、モミの木が1本崩壊を免れていた。小説ではないが、モミの木は残ったである。

2011年11月11日金曜日

白河土砂災害

  白河土砂災害は、19888月に起こった。福島県白河地方と栃木県那須地方で大きな被害が出た。老人ホーム太陽の国では逃げ遅れた方が帰らぬ人となった。すぐに現場に駆けつけ広域に調査した。今まで見たことがない表層崩壊がたくさん確認できた。木が立ったままで斜面を橇に乗ったように滑り落ちている。かなりの速さである。この現象をきっかけに根系層崩壊という論文をかいた。つまり、木の根が表土の下の地盤まで入らないような特殊な地質が原因だ。専門用語では低溶結火砕流堆積物である。このような木の根の減災効果が発揮できない特殊な地質は他にもあることがあとでわかってくる。
 大変勉強になった現場であった。

2011年11月9日水曜日

災害のたびに現場に

 1991年に環境地質を作って、災害があるたびに現場に出かけるようにしたコンセプトは、環境地質技術は現場にあるという強い意志にある。会社を作った1991年には雲仙普賢岳が噴火し、多くの被害を出した。火砕流という言葉も一般化したほどいろいろな報道が続いた。
 噴火から、20年ほどが経ち忘れられがちであるが、10年や20年の節目ごとには現地を訪れ講演などをやらせていただいている。当時の災害の大変さや防災の工夫を忘れないようにしないといけないと思う。1991年から2011年までの間に、災害直後に調査した現場は、火山噴火で雲仙をはじめ4火山、地震災害では阪神淡路大震災をはじめ10地震、豪雨災害では白河土砂災害はじめ10災害となった。最近20年間に起こった我が国の主要な自然災害はすべて見てきた思う。私の大変な財産である。現場を見ると環境地質技術の新しい発想が生まれる。被災した方には申し訳ないが、それが私の恩返しと思うようにしている。これから現場調査は続けるが、世代交代も必要だろう。
 災害調査では、いろいろな優秀な方と一緒することが常である。彼らとの意見交換も重要な財産と思う。個人の努力は必要だが、技術士は1人だけでは成長しない。広い分野の人のネットワークの大切さがわかる。

2011年11月7日月曜日

鉄根打設工法

 学位論文から発展して、表層崩壊の防止になる鉄根打設工法を考案し、特許をとることにした。鉄根打設工法は、木の根では足りない要素を鉄の根に置き換えて表層崩壊を防ぐもので、木を切らなくてもよい。大変環境に優れた工法で、都市斜面だけでなく、山間地や森林斜面にもうってつけである。
 さて、対策の前に表土の厚さや強度を調べる必要がある。表土の調査方法は、土木研究所で開発された土層検査棒がよい。軽くて簡単で、しかも土層の強度が直接求められる。購入していろいろ試してみたところ、使えることがわかった。でも、値段が高い。いろいろな方がやるには、その半額でないとだめだろう。土木研究所と交渉し、特許使用による販売代理店契約をした上で、私の事務所のある川崎近くの町工場に同じものを半額で作れるような技術開発をして売り出している。今のところ順調に売れている。
 次は、自分で特許をとった表層崩壊の防止になる鉄根打設工法の売出しである。試作を首都圏のいろいろな斜面でやっているが、今のところ対策斜面での崩壊はない。崖には個性があるので、その場その場でいろいろな工夫は必要だが、大丈夫だろう。
 学位論文から、特許に発展して、斜面対策の工法まで考案できたのは技術士としてもすばらしいことだと思っている。あとは売れないといけないがーーー。

2011年11月5日土曜日

ポーランドの地すべり

 ポーランドでの国際会議と地質・地すべり巡検もあった。一番の印象は、タトラス山脈の2重山稜である。ロープウェーで山頂近くに着くと、周りは雲の中で真っ白である。稜線沿いにトレッキングしながら山を下る計画である。とにかく出発。途中から快晴に変わった。世界で始めて文献に載った2重山稜をみて感激し、何枚も写真を撮った。下りも氷河地形が随所にあり、距離は長かったが飽きないトレッキングであった。
 そのほか、いろいろな地すべりを見学した。都市内の河川沿いのすべり、田舎のゆっくりとしたすべり、山岳地の斜面崩壊と興味は尽きないが、日本と違って降水量の少ない地域のすべりは、何か勢いというかすべりの速さを感じさせない印象であった。そのほか、巨大な露天掘り炭鉱のすべりや岩塩鉱山内での会食、バルト海の海岸侵食をみたのもよい経験である。
 ドイツやロシアとの国境問題や、首都ワルシャワ・古都クラクフの都市文化も考えることが出来た。バルト海沿いなどで取れるアンバー(琥珀)はお土産に最適で、私は、琥珀のほかに岩塩のランプや木の彫刻品も買ってかえった。いつも、何でこんな土産?と家族に言われるが、このときは、喜んでもらった。
 技術士のよい勉強になっている。

2011年11月3日木曜日

ネパールに飛んで

 学位論文書く中で、ネパールでの調査を5年間程度飛び飛びに行った。道路斜面のハザードマップや世界遺産の斜面保全、地震防災の問題である。大学の研究に参加させていただく格好であり、その中で国際会議の発表や座長などもさせていただき大変勉強になった。ネパールでの友人も増えた。研究の最終年には学長からじきじきに感謝状をいただいた。ネパールは日本とよく似た地形・地質の山国で、日本の斜面防災技術は大変に参考になるはずである。もちろん高価なハードの対策技術は難しいが、植生を考慮した斜面安定技術は使えそうに思う。
 調査の合間に、世界遺産寺院の散策やエベレストを見るフライト、夜のロキシーで乾杯などもいいものだ

2011年11月1日火曜日

子供とサッカー

 そういえば、会社勤めの時には子供と遊べなかった分、独立してから、子供と多摩川河川敷に草サッカーをやりによく出かけたもちろん子供が小さいときである。ゴールは服や木の枝を2つづつ置いて作るだけ、ボールは小さいスポンジボール、小さい子供には安全だ、真っ暗になるまで走り回ってどろどろになって帰る。行き帰りはいつも自転車だ。子供が少し大きくなっても続けていた。ボールはフットサルの大きさになった。娘の友達の女子高生にも教えた。みんな元気だ。
 体育館でもフットサルをやった。娘や息子の仲間である。みんな良い人だ。最近、行く機会がめっきり減って、体がなまっているな。娘や息子も、最近働くようになって、いそがしそうで、あまりボールに触っていないようだ。近くの公園でドリブルでもしようかなー。

2011年10月30日日曜日

工学博士をとる

 森林の勉強と平行して学位論文を書くことにした。苦労もあったが、2年で工学博士が取れたこれも今まで論文を発表し続けてきた甲斐があったからだろう。いろいろな人に助けられたが、まず女房に感謝である。植生と斜面安定の論文である。たぶんこんなことをしているのは日本でも珍しい。しかも、環境と防災が共生できる前衛的な論文だと思っている。
 この論文から、多くの発展できる課題が見える。鉄根打設工法などに発展したものもある。まだまだ面白い分野やアイデアは多い。技術士とは違った角度から技術を見るには学位もよいのではないかと思う。

2011年10月28日金曜日

地盤の履歴書

  最近、宅地地盤の相談を受けることが増えてきた。特に、東日本大震災後には、液状化や谷埋め盛土という言葉が注目を浴び、かつての火砕流や土石流のように、一般用語になりつつある。地盤という言葉もキーワードとなってきた。うれしいようなつらいような複雑な気持ちである。今年の台風の被害では深層崩壊や天然ダムがキーワードとして追加された。
 このような自然災害から身を守るには、自分がいる地盤がかつてどうであったを知ることが重要で、旧版地形図を使った地盤の履歴書を作ったり、わかりやすく解説する必要性を感じている。

2011年10月26日水曜日

森林部門をとる

  技術士の応用理学と建設部門の相談にのりながら、その本質は環境地質学であったようだ。その中で、応用理学と建設部門の技術に密接に関係している斜面の安定問題と環境保全の代表格のような森林がどのように係わるべきかを長年研究していた。わかりやすく言うと、斜面の安定問題は、地盤の地質や工学的強度、水理学によって研究されており、地表にある植生は無視されることが常である。反面、植物や森林などの生物をを扱う研究者は、地質や地盤には無頓着で、生き物の研究や環境の保全に熱心であることが多い。両者の接点は唯一、地盤表層の土壌という感じであった。これらの専門分野のニッチには面白い課題が多い。今回のニッチ領域は防災と環境保全という大きなニッチでやりがいがある。
 10年以上をかけて続けていたこの研究は、その都度が学術論文に掲載していた。これらをまとめると、学位論文になるだろう。技術士の幅を広げる意味で、森林部門の技術士にチャレンジした。今までやったことのない林業の勉強を平行してやらないといけない。試験では、植生と斜面安定の研究や実績を書くことにした。結果は、何とか合格した。
 境界領域は広い。私のキーワードは環境地質だ。

2011年10月24日月曜日

総合技術監理部門をとる

 技術士にはいろいろな専門分野がある。各分野が専門性は高まる一方、分野を越えた総合的な技術が求めるられるようになってきた。そこで、技術士会では総合技術監理部門を新設することになった。その経緯を技術士会から聞いていたので、この部門の始まった年に受けることにした。試験内容や、試験のやり方も試行錯誤の状態で、2次試験の面接官もどこか落ち着かないような感じであった。受験者と面接官の技術力も接近していたのではないだろうか。
 今までやってきた技術監理や技術開発を書いて、話したところ何とか合格することができた。専門バカにならないためにも、総合技術監理の技術士は役に立つに違いがない。応用理学や建設の専門分野を越えて広い技術監理を考えないといけないと思う。

2011年10月23日日曜日

建設部門をとる

  応用理学部門の技術士として、いろいろ業務に携わってきた。その中で、周辺技術への関心や必要性を感じていた。建設工事では、周辺の生活環境にいろいろな影響を与えることが多い環境地質学の技術はこれらを解決するのに本当に役立つ。たとえば、建設現場周辺の地盤が沈下した際、その理由を地盤の地質構造で解決した。さらに、臨海部の工場の地盤が隆起した際、その原因を地盤内の特殊な鉱物にあることを突き止め解決した。トンネルや地盤を掘削すると周辺の地下水が低下することも多い。そうすると近くの井戸が涸れることになる。建設事業に係わるいろいろな相談事が寄せられる。これらの経験をまとめ、技術士の建設部門(建設環境)の技術士を受験した。
 応用理学の受験経験が生かされたのか、合格することが出来た。これで、建設部門の本格的な相談にものれるようになった。自分の得意分野が広がり、少し満足である。

2011年10月19日水曜日

仕事をしながら、研究発表

 学術学会への参加で増える人脈、頼りになる技術者・研究者、お互いの技術力の助け合いや研鑽、人が技術力を育てる
 会社の職員も増えてきた。やっとやりたいことが見えてきた気がする。社会の構造も変わってきて環境地質学が求められているような実感がわく。まだまだ頑張るしかない。

2011年10月17日月曜日

頼りになる妻

 会社を1人でやるのは大変だ。安定した企業から、独立することに文句を言わなかった女房は、率先して会社を手伝ってくれた。2人で会社を始めたというべきだ。経理・総務・業務の整理やトレース・図面の色塗りと何でもこなす女房は頼りになる。仕事がない時もつらいが、忙しくなると企業にいたときより厳しい。徹夜もするし、連続して出張も多い。
 忙しいときは、私の友人や女房友達まってくれた。狭い作業部屋がすぐにいっぱいになり。もう少し大きなところに引っ越すことになる。

2011年10月15日土曜日

技術士だけではやっていけない

 始めのうちは、小さな仕事をこつこつと、そのうち解析や大きな仕事も増えてきたが、技術士だけでは仕事はとれない技術士あって当然、その技術士で何が出来るか何がやりたいかが問われる。
 環境地質学の創造、技術で勝負するといった以上、社会に打って出る。いろいろな学会での研究発表、論文掲載、学会の委員会への参加を決意したはじめての学術学会ではその学会に馴染むのは難しく、疎外感もあって簡単ではなかったが、徐々に技術者の知り合いは増え、参加する学術委員の数も増え続けた。現在は、所属する委員会は、56程度、毎年57編程度の学術発表や、年23編の論文を書き続けている。最近では講演や大学での講義もある。情報は発信しないと集まらない。身をもって感じたことである。

2011年10月13日木曜日

環境地質を創業し、一からやり直し

 20年前、これからの技術の動向を考え、環境地質学をやりたくて、会社を創業することにした。まず、1ルームマンションで1人で始める。3月末に辞め、4月1日から始める。失業保険はいらない。頼りは、技術の力と良き仲間である。独立技術士の始まり。
 事務所開きに集まってくれた良き仲間がいた。そのなかでも優先的に仕事をくれた方や相手先を紹介してくれた方、そして、仕事をくれた前の会社の仲間や上司、後輩などには感謝している。今でも付き合いが続いている。反面、開業挨拶にいくと手のひらを返して門前払いの会社もあった。
 ある学術学会では、会社を辞めたので、所属していた委員を辞めますと話したとき、会社で委員を選んだわけではない、人で選んでいるのだから残ってくださいといってくれた。技術の世界がある。頼もしい。企業内技術士の時には、学術学会の活動はあまり出来なかった。1つの委員会の委員だけで、学術発表も少なかった。これで、目が覚め、その当時、誰も関心がなかった環境地質学の情報発信もしたい。
 もちろん、技術士会にも入った。

2011年10月11日火曜日

企業内技術士って

  大きな企業には、多くの技術者がいて、その頂点にいるのが技術士だ。技術士の中でも分野が分かれていたり、経験や技術力の差がある。人をみて仕事を頼まないといけないが、技術士なら基準内の対応は可能だ。ただ、企業にいるとどうしても会社の名前で仕事をするので、弁護士さんや医師のように自分の名前で仕事をしているという意識が少なくなる。大きな企業だと人間関係も複雑で、将棋の駒のように動かないといけない苦労がある。その反面、社内には優秀な先輩技術士や他分野の技術士がいて相談に乗ってもらったり、共同で作業し大きな成果を出すことができる。社内でどのように業務を進めるかは、本人の意思と周りの人たちの関係できまる。
 もともと技術士は、独立して仕事をするように作られたのであるが、現在は、企業内技術士が圧倒的に多い。よいことかよくないことかよくわからない。私も企業内技術士として出発し、そのころは技術士の登録はしたが、技術士会の会員にはならなかった。現在、独立して技術士会の会員になっている。技術士会にいろいろと問題点はあるが、個人の技術力を売っているのであるから、医者や弁護士のように登録者全員が技術士会に入るべきと思う。

2011年10月9日日曜日

子供がなつかない

 ほとんど出張で家に居なくてまだ小さな子供が、時たま家に帰るとおじちゃんまた遊びに来てねというのです。仕事も大変だが、家庭環境を維持するもの大変だ。企業内技術士も楽ではない。次回は、技術士が企業内技術士と独立技術士がある説明をして、企業内技術士の苦労とよいところなど話してみたい。

2011年10月7日金曜日

地方から東京へ

 地方から東京へ転勤、業務内容も全国的に有名なサイトが多くなった。
付き合う相手もそれなりの方である。仕事をする金額も大きくなった。ここでは、いろいろと勉強になることが多い。内容はともかく日本のトップレベルの仕事をしていることは自分の自信になる。大学院でも同じであったが、トップレベルの中で研究をしていることは、上を知ることで、ある意味余裕が生まれるということである。技術の生かし方にとって重要なことである。
 ところが、東北地方に大きなプロジェクトで長期出張となり、2年間ほとんど東京を離れた。でもストーブ、ヤマセとの戦い秋は、きのこの林にはいる楽しみ、春は、アズマイチゲ・カタクリ・ミズバショウを見ながら調査と楽しみはあったが冬は吹雪の中の現場前が見えない白鳥がうるさい。ここでは、現場の責任者になったので技術だけでなく、総務、工務、経理、営業、安全、渉外などを実践して後で独立し創業するための役立った。苦しかったけれど、技術士としての厚みを出す経験になった。

2011年10月5日水曜日

応用理学部門に受かって

  東京に来てやっと技術士の応用理学部門に合格した。暑い中の試験であったし、ほっとした。仕事をする上でどうしても欲しかった資格であるし、企業内ではもっていないと肩身が狭い。技術士になったから、仕事の内容が大きく変るわけではないが、何か余裕が出来る。技術者として自覚のできる。
 これからがどうして行くかを問われているようで身が引きしまる。技術士の応用理学部門は地質学などの知識を土木や防災、環境の問題にどう使うかの専門技術部門であり、かなり広い範囲を担当することになる。主として地質学出身者が受ける部門である。
 頑張って仕事だ。

2011年10月3日月曜日

地方での業務

 前回までは、自然災害が続いたので少しわき道にそれて災害の話になりました。豪雨災害だけでなく地震や火山噴火が起こるたびにその直後に現場を見てきました。これらの話はまたいずれすることにして、話を技術夜話本題に戻します。
 中国地方にいた際、管轄が山陰から四国まで及んでいたので、西日本の代表的な地質をほぼ見ることが出来、大変勉強になった。たとえば、地すべりでは、破砕帯地すべりの代表地の四国山地、温泉地すべりや第三紀地すべりの出てくる山陰地方、崩壊の多い花崗岩が分布する瀬戸内沿岸地域など日本を代表する多種多様な地質があった。
 山岳地のダムも多く手がけ、現在完成してるものも多い。岩盤にオープンクラックがあり苦労したもの。低角度逆断層で苦労したものなどいろいろとあった。トンネルの調査では、湧水、破砕帯、坑口地すべり、薄い土被り、周辺への地下水障害などの問題を解決してきた。空港の建設も当時目白押しで、高盛土の品質や切土の勾配など解決する課題が多い。低地では軟弱な地盤の問題、台地や丘陵地では、盛土や切土の問題がある。水資源の開発では、ダムだけではなく地下ダムや水源井戸の選定、エネルギー問題では、鉱山の地下空間再利用や周辺への汚染問題も担当した。環境問題では、廃棄物処理場の汚染など悩ましいこともあった。
 このころは、国土開発が大いに進み、それに係わるに地質や地盤の問題を解決してきた。
もちろん、防災や環境や施設の維持に関することにも係わることもあった。今でもその経験は役に立っている。
 地方での業務は、町医者のように細かく多様な相談事を解決する能力が必要で、広い知識が重要と思う。技術士としての大事な要素の1つでもある。

2011年9月28日水曜日

土石流とは

 土石流には、3つの起こり方があります。1つ目は沢のどこかで崩壊が発生してそれを引き金に発生します。2つ目は、沢の中の土砂が水で飽和し発生します。3つ目は、今話題になっている。沢の中に出来た天然ダムが決壊して発生するものです。いずれも、土石流が発生してしまえば、泥水に土砂の混ざった流体が沢を人間が走る速さの数倍の速さで流れ下るので、発生する前に逃げるのが原則です。
 土石流の中には、2m、3mもある巨礫が混じることは当たり前で、最近では、多くの流木含むことが多くなってきました。山が荒れているからです。しかも、これらの巨礫や流木は土石流の一番前に集まるので、その破壊力は大変なものになります。
 自分の家が、沢の出口近くの方は一度沢の中に入って沢が荒れていないか確かめてください。早めの避難が大切です。

2011年9月26日月曜日

落石とは

 落石は、斜面や崖に残っている転石や浮石が何かのはずみで落ちる現象で、素人でも理解しやすい。転石は斜面に転がっている不安定な大きな石をいい、浮石は崖の岩盤であるが、岩盤にかろうじてくっついている剥がれそうな石を言うことが多い。どちらも落ちれば落石に変わりはない。専門家が分けるには理由があって、落ちる原因や対策の仕方が変わるからである。御容赦願いたい。
 石が落ちるきっかけは、大体理解してもらえるとは思う。地震・豪雨などの自然現象が第1である。第二に崖での工事などを考えてよい。山地では大きな動物が石を落とすことがあるが、そう多くはないだろう。
 対応策は、崖に近づかないことである。どうしても近づく必要があれば、崖をよく観察して、危なそうな転石や浮石がどこにあるか知っておくこと。本当に、危ないと思ったら、崖の不安定な転石や浮石を直接取り除くか、ネットやボルト、コンクリートで固定するのがよい。それが出来なければ、多少落ちてきてもが崖下でキャッチするようなネットやコンクリートの壁を作ることである。
 後になるほど、言うは簡単だが、時間とお金がかかる。ちなみに、落石の予測は難しく、崩壊より予兆現象が少ないので要注意です。能登半島沖地震では直径5mもする落石がありました。崖で小石が落ちるとか、土砂がぱらぱら落ちるとか、木が傾くとか、水の出方が変ってきたとか、崩壊の予兆現象とよく似たことが起こるときもあるので注意していてください。

2011年9月24日土曜日

土柱の上のカモシカの親子

 これも、富山の話である。深山に入ると草も生えない崖に出る。やせ尾根のとんがった崖の上にカモシカの親子が見える。傾斜は80度はあるだろう崖の上である。よく登ったものだ。感心しているとじっとこちらを見て様子を伺っている。
 昔、南アルプスを調査したとき、尾根を登っているとき、50mくらい先を等距離で様子を見ながら付かず離れずでカモシカが移動していたことがある。また、身延山の近くで、上にいたカモシカが足で岩を落としてきたことも思い出した。間一髪飛びのき、難を逃れたが、なかなかのものである。東北青森の海岸線近くでは、標高が低いのにカモシカに出会ったことがある。なぜこんな低いところにいるのか、違和感があった。カモシカにはよく会うが、なかなか好きになれない。

2011年9月23日金曜日

火砕流堆積物の裂け目でのクマとの出会い

 これも富山県の話である。相手は、ツキノワグマ。これは手ごわい。
県内には、火山の堆積物がある。特に、火砕流堆積物は高温で流れ下って来て、冷えて固まる。この固まる時に、堆積が減少して大きな割れ目が出来ることがある。この火砕流堆積物を調査するため、ハンマーでたたきながら崖を下っていった。かなり、崖を下ったとき、なんともいえない特有な獣の臭いがした。まさに、崖に開いた大きな裂け目からである。不思議に思っていると、その裂け目から大きなクマが飛び出してきた。時期は晩秋で、クマは冬眠の準備中だったみたい。
 びっくり仰天、私は崖の草に摑まりながら西側の崖沿いに飛び出した。クマはというと反対の東側の崖に沿って走っている。20mほど走ったが、崖の上であり、不安定このうえないが、必死である。はっと我に返ると、目の前は、草も木もない1枚岩の切り立った崖が出現した。比高差100m以上もある地域で有名な崖である。
 クマのいる後ろに戻るか、崖を上に上がるか、降りるかの選択だ。崖を下ることは出来ない。かといって、クマのいる元来た通路を戻るのも怖い。瞬時に崖を登ることにした。何とか足場は確保できそうだ。黙々と登る、3点確保。でも早く登りたい。いつクマが心変わりするかも知れない。ドラマの女性のように。
 長く感じたが、崖の上に上り詰めたとき、やれやれと座り込む。目の前にカモシカがいた。いつもは怯むが、この時ばかりは、そこを退けとばかりにカモシカを追いやる。カモシカの臭いはクマほどではない。臭いが違う。クマの臭いは、もう忘れられない。今度出会うときには、事前にわかると思う。自分も野生になったのか。時に人間も野生に帰ることも重要かも知れない。

2011年9月22日木曜日

ボスザルとの和解

 今回は、深山で野生サルと出会った話である。富山県の山深くには野生のサルが多い。道路が山の深くまで入っているものがあり、その道路沿いで出会ったサルは、人に会うとやや控え目に逃げる。
 道路からおりて、山の中に歩いて入っていくと様相は一変する。たまたま夕暮れに近くなったが、まだ、山の中を歩いていたとき、山の木々が急に揺れだした。何だと思って回りを見渡すと、どうやら野生ザルの群れのちょうど真ん中にいるらしい。地質調査に集中していたので、不意を付かれた格好である。しかも、そこが群れのねぐらで、今日はここで眠るらしい。どうしたものかと考えていると、ボスザルとおぼしき屈強なサルが木からざーと下りてきた。おおと思って対峙すると、ぎゃぎゃとかなりの勢いて威嚇する。
 これは困った。もう少し先に目指す地質の露頭がある。調べたい。しかし、ここは、群れのねぐらである。ボスと話し合いをすることにした。ここを通してくれないか。しかし、ぎゃぎゃとダメだといっているようである。仕様がないので、今日のところはボスをたてよう、このまま帰るが、明日は来るからなと、ハンマー(地質屋の心)を前に出し、わかったかーと怒鳴り返して、和解した。
 いってみれば、体のよい撤退であるが、致し方ない。野生ザルの地元では、彼らも強い。

2011年9月21日水曜日

サルとダイコン

 地質調査をしていると野生動物にあうことが多い。少し、山の中でであった野生動物の話をしたい。まずは、サルとダイコンである。夕暮れ時、山からおりて来たとある田舎の集落で小道を子供がダイコンを抱えて横断しているように見えた。それにしてはダイコンの持ち方が引きずるようで、ぎこちないので近寄ってみる。なんと野生のサルがダイコンを持って山に帰るところであった。
 どうしてよいのかわからず、とりあえず、「こら」といって追いかけたが、足早に逃げられた。すぐ近くに民家があり、ダイコン畑の主とおぼしきあばさんに告げたところ、いつものことでしょうがない。年寄り1では集団で来る野生のサルは怖くて勝てないとあきらめていた。
 そういえば、別の地方の山間集落でも、人家の近くの柿の木に野生ザルが集団で登って熟した柿を食べているのを見た。近づいて注意すると威嚇しながらしぶしぶ退散した。私は、これでも未だ若く?、サルを追いやる力をサルのほうでも認めた形である。最近、限界集落が増えてきている。限界集落は自然と人間の住む場の最前線なので、いろいろな意味で体力がいる。本当は高齢の方ではなく、若者が住むべきところのような気がしてならない。

2011年9月20日火曜日

崖崩れとは

 崖崩れは専門的には斜面崩壊と呼ばれていて、表層崩壊と大規模崩壊(最近、深層崩壊とも呼ばれるようになった)にその規模で分けている。その発生の割合は、圧倒的に表層崩壊が多く、深さは1~2mくらいで、幅は510m程度、長さも520m程度と集中豪雨や地震で発生する。急な斜面ではどこでも発生する可能性はあるが、雨では、水の集まりやすい凹状斜面が危険で、地震では逆に地震力が集中する凸状斜面が危険である。地質によっても発生しやすいものがあり、固結度の低い砂層や砂状の地盤になりやすい花崗岩や粘土化しやすい泥岩の分布箇所に多い。対策は比較的容易で、斜面内の水を抜いたり、よう壁や法面工などで力で抑えことが可能で、場合によっては、植生を生かした保護工なども利用できる。
 それに対して、深層崩壊は深さが10m以上で、場合によっては50mや100mに及ぶものもある。移動する土砂量も1万m3を越えるものを言う。起これば、被害は甚大であるが、発生頻度は少ない。深いすべりであるので、地すべりと同じく、当然地下の地質や地質構造が問題となり、起こる場所の特徴もある。日本では、火山地域や付加体と呼ばれる岩盤がもまれたところに多い。発生の誘因は長雨や大きな地震・火山噴火などである。
 ただ、地すべりのところでも述べたように、初生的のものが多く危険な地域を広域に示すことは出来ても、今のところどの斜面で起こるか限定することがむつかしい。しかも、一旦崩壊すると、土量が多いので被害が甚大でるうえ、土砂ダム(今までは天然ダムといっていたが中越地震災害を契機に呼び方を変えてきている)ができて、その決壊による大規模土石流の発生など複合的な災害をもたらすので、厄介である。対策も避難などのソフト対策が中心となり、ハード対策は規模にもよるが経済的に考えて妙案は少ないのが現状である。
 都市部でもっぱら問題となるのは、崖の表層崩壊やそれに伴う落石である。規模は小さいが、人家が崖に接近してしているので、非常に危ない。私の住んでいる横浜市内にも危険な崖は残っており、テレビ番組で話したようにしばしば問題となる。都市は自然災害に対して一見、安全なように思われるが、まだまだ、隠れた危険があることを認識して欲しい。地すべりのところで言い忘れたが、都市の中に隠れた谷埋め盛土も地震のとき滑り出す危険があり、要注意である。
 次回は、斜面災害として残った落石や土石流について述べるつもりである。

2011年9月19日月曜日

地すべり調査

世界中に地すべりはあるが、日本には地すべりが多い。どうしてかと言うと前回話たように日本の地質は複雑で断層などの弱層が多い。地形も急峻で雨や地震・火山噴火が多いからである。では、地すべりってなに。
 日本では、地盤がゆっくりと繰り返して動く現象に限定しているが、海外ではランドスライドと呼び、日本で定義している地すべりの他に崖崩れ(崩壊)や落石、土石流なども含んでいる。海外の会議ではややこしいがどうしようもない。
 では、地すべりはどうして起こるのか。原因を専門の技術士は、素因と誘因に分けて考えている。素因は、地形や地質・地質構造などのもともと地盤にある要素で、水の集まりやすい地形とか、断層・温泉粘土などすべりやすい地質があるとか、流れ盤やオープンクラックなどの地質構造であるとかだ。これらのことは、むつかしいので専門の技術士が調べる。誘因は、皆さんのよく知っている豪雨や地震・火山噴火などで、素因のある地盤を動かす推進力だ。この2つが重なると地すべりが動くことになる。雨や地震で地すべりが動くのはこのためである。ですが、動くには素因があるのです。これを事前に知っておくと、地すべり災害の長期的な予測が出来る。ハザードマップも作れる。国の防災科研では、全国の地すべり地形マップをHPで公開してるの参考になる。県では、実際、法律に基づき地すべりの危険のある箇所を地すべり防止地域に指定して対策工をおこなっている。
 さて、日本の地すべりをタイプで分けるとどうなるか、古くは小出先生が、地質によって破砕帯地すべり、第三紀層地すべり、温泉地すべりの3つに分けている。地すべりは、繰り返し起こるので、その発展過程により分類することも行われている。要は、始めは固い岩盤が、地すべりを繰り返すことにより柔かく土砂のようになっていく過程を分類するのである。では、なぜ地すべりが始まるのか。この問題は初生地すべり問題として研究が行われており、かなりわかってきているが、残された問題も多い。
 この最前線の問題は、私も係わっているので、いずれ書きたいと思う。
 それでは、地すべりと崩壊の区別はどうなのという疑問が浮かぶでしょう。浮かば無い人は、あまり技術的な関心がないですよ。読み飛ばし期間ですね。実は、定義はいろいろと作っている。地すべりはゆっくり、繰り返し現象で、崩壊は急で、一過性現象とか。ですが、実際の自然現象はどうしても漸移的で境界部分ははっきりしません。ですので、国際的にはランドスライドと一括しているのだと思う。我が国では、どうしても専門家がムラを作りやすく、その中で「学問」だけど「道」(たとえば、華道や柔道など)に入っていく傾向があるようです。ちなみに地すべり学会があるのは世界中で日本とネパールだけで、ネパールの地すべり学会設立には日本の技術者が多く係わっている。ある意味、日本は地すべりの先進国というわけである。それはさておき、次回は深層崩壊などで注目を浴びている崖崩れについて話をしましょう。

2011年9月18日日曜日

ダムの地質調査

これからしばらくの間、技術的な話をします。出来るだけやさしい言葉で書きますが、退屈な方は読み飛ばしてしてください。
 最近、要不要の論議のあるダム。ダムの地質調査は、当時(20から30年前)全盛で、地質調査の花形であった。現在、コンクリートから人へという考え方もあるが、ダムは、すべてコンクリートで出来ているわけではなく、土のダム、石のダムなどもある。どのダムも大きな躯体の強度を保証するだけでなく、作るには、コンクリートの知識、石や岩の知識、土の知識が必要です。しかも、水を溜めるので水理の知識が重要です。また、付帯的に道路やトンネル・橋を作るのでこれらの技術も知っていないといけない。道路を切り開く時や水を溜めたときには、地すべりが起こることもある。地形や地質をよく知ってこれらの不安要因を事前に取り除いていかないといけないので大変だ。
 最近では、建設時あるいはその後の周辺の自然環境や社会環境への影響も事前に予測して対処することも強く求められる。動物への影響、植物への影響、気候への影響、もちろん人への影響もある。多くの方が移転を余儀なくされるときには、十分な計画が必要になる。ダム湖が出来てからは、その水質の維持や水温の変化をみたり、堆砂する土砂をどのように軽減するかも悩ましい問題である。
 先ほど、ダムの地質調査は、調査の花形であるといいましたが、それは、まさにこれらの総合的な問題をダム通じて解決することを求められるからである。ダムの要・不要の問題はさておき、日本の地質は複雑で断層などの弱層が多い。地形も急峻で雨や地震・火山噴火が多い。このような自然条件の中でいかに安全なダムを経済的にも環境的にも有効に作っていくかを技術士は問われ続けている。
 このような総合的な技術は、ダムだけでなくいろいろな地盤技術に適用できるので、今後もダムを経験した技術士の活躍の場は多いと思っている。

2011年9月14日水曜日

 最近、雨の降り方が偏ってきたといわれている。いわゆるゲリラ豪雨もその1つだ。台風12号でも記録的な雨が降って近畿・四国・中国地方で大きな災害となっている。特に、長期間雨が降ると最近注目されている深層崩壊がおこる。深層崩壊は地震でもおこるが、長雨も警戒しないといけない。それに対して、表層崩壊は短期間の集中豪雨でよく起こる。
 雨による災害を思うと、心が痛む。その反面、渇水の被害も深刻である。平成6年など多くの被害が出た。恵みの雨も必要である。最近の雨の降り方が両極端によく振れるようになったように感じられて仕方がない。ほどほどに降るか、降った雨をうまく貯める良い方法がないものか、地下ダムの研究もしたが、なかなか難しかった。
 自然とうまく付き合う方法をいつも考えている。

2011年9月12日月曜日

なんで海に潜ったか

山へ行くのは好きだったが、何で海に潜るようになったか。会社に入ってから本州四国連絡橋の仕事もやるようになった。我が国でも始めても長大橋の連続で大水深での工事も多い。海で囲まれた四国を本州とつなぐ始めての橋である。地質調査でも未知のことが多く、新しい測定機器の開発や測定・調査方法を模索しながらの毎日である。苦しいけれど得ることも多い。特に、海底にある橋の基礎となる岩盤をどのように評価するかも問題となった。地上の大きな構造物の基礎岩盤は、掘削してその岩盤を目で見て、ハンマーでたたいて評価する。
本州四国連絡橋でもそのようにしようと言うことなったが、何せ、橋の基礎は海の底である。水深30m50mのところもある。これは大変だ。という訳で、潜水士の免許を取って海の底にもぐことになってしまった。もぐりの人生である。瀬戸内海では、水深10mを越えると真っ暗になる。大きなライトを沈めてもらう。海底ではマリーンスノーという微生物の死骸が降ってくる。幻想的だ。でもぐずぐずしていられない。橋の架かるところは大体、瀬になっていて潮の流れが速い。潮どまりを狙っての潜水である。あっという間に時間がすぎる。時には、背中のボンベの空気が水中でなくなり、緊急のコックを引いて難のしのいだこともある。さすがに、このときは女房の顔が目に浮かんで、水面へ這い出せた。
 最近では、大河川の堰の洗掘や海の防波堤基礎の確認などで海に潜っている。歳のせいもあってきつい仕事だが、透明感のある一人の世界に入れて結構楽しんでいる。技術士として、水中地質調査の仕方についてまとめてみたい気もある。

2011年9月10日土曜日

会社に入っての地質調査

 女房との結婚で、研究者を辞めて赴任地岡山の会社に入る。この時、タバコをやめてドクターを辞め決心をした。地質調査をする会社で、とんでもないほど忙しかった。徹夜、夜2時3時帰宅は当たり前、夜中心配した女房から電話が掛かってくる。1年273日出張の年もあった。でも残業はいっさいつけなかった
 業務は、公共事業中心の手堅い仕事が中心である。世の中、ちょうど高度成長期で、忙しいが、多くの優秀な仲間や上司と出会えて楽しかった。始めのうちはボーリング屋さんと呼ばれながら、長大橋、ダム、地すべり、トンネル、水資源開発、建物の基礎など何から何までやった。地表踏査・水文調査・物理探査・検層・原位置試験・ボーリング・サウンデイング・室内試験・地すべり解析・斜面対策工の設計など土木地質や防災地質・環境地質に係わるハードソフトの業務のほとんどを経験した。
 泥臭い仕事が多く、自分は鈍行列車で走っているが、大学院を一緒に出て他の分野に進んだ同期は、華麗な新幹線で走っているように見えてへこむ事もあったが、何事も、経験である。この経験が、後の技術士の業務をする中で大きな力になっている。

2011年9月8日木曜日

研究者としての地質

大学を卒業し、そのまま研究者として大学院にいくことにした。単車での地質調査をしながら火打ち石に使われる火花のでるチャートの成因を探ることにした。チャートが生物起源の石か、無機的沈殿物かの論争があった。チャートの中から、放散虫や珪藻という水中の住む微化石を抽出し、生物起源とした。さらに、時代によって放散虫や珪藻の変化が見つかり地層を分けることも出来るようになった。ただ、チャートの堆積環境や層状構造がどのようにしてできるのかわからなかった。現在も層状構造の起源はわかっていないようである。
自然の中にはわからないことがまだまだ多い。わかってもわかっても自然科学の研究に終わりはない。
2年間の研究期間であったが、立派な多くの研究者との出会いで、いろいろな刺激を受けた。今でも付き合いがある方も多く、お互いに刺激しあったり、教えを受けることも多い。地質学をベースとした技術士の活動を行う上で頼もしい助言者になってくださっている。

2011年9月5日月曜日

地質学との出会い

 自然が好きで地図好きで、大学でを学んだ。自然の中を歩けば歩くほど自分で地面の図が書ける地面の図とは地質図のことで、色とりどりのきれいなマップとなる自然の岩石は、大変きれいでいろいろな色や形があって飽きることがない。川原の石も見ていても楽しいが、地面にくっついている露頭・露岩といわれる地質を見るとその岩石の続きが地下深部へと続き地面の下の地下構造が見てくる。なんと素敵なことだろう。自分の予想した地下構造が正しければ言うことはない。
 大学院に入って地質の研究をすることを決めた。大学では、地質学だけでなく素敵な女性と出会うことができた。女房との出会い。これから長い生活が予想される。地面から地下の地質を予想するのは難しい。

2011年9月3日土曜日

地図

小さいときから地図が好きで、雨の日などは地図を眺めて1日飽きなかった。まだ見ぬ遠くの世界が見えてきて、夢の世界に入っていける。地図を見て、どうしてここに山脈が出来たのか、海があるのか、湖があるのか、半島や島があるのか不思議なことがあるが、地形図を読込むとその理由がわかることがある。なかなかである。首都や町の位置どりは、人がどのようなところに集まりやすいか見えてくるし、道路や鉄道のルート取りは計画した技術者の力量や苦労がわかる。低地のぬかるみを回避したり、地質の悪い断層や地すべりをうまく避けているのを見ると気持ちが良い。
国境の位置も興味深い。国や国民・民族の駆け引きが見えてくる。古都、遺跡や城跡、戦場跡を記した歴史地図は、当時の生活や戦の様子を彷彿させる。見ていて楽しみは尽きない。
 地質学を始めて、何が楽しいかというと自然を歩くのだけでなく、自分でオリジナルの地質図が描けることである。書いた地質図が、正しいかどうかは、地形に合った地層の分布か、地層の成り立ちや地質構造が素直に読めるかにかかっている。無理があると、後で間違っていたことがわかることが多い。
 数年前に全国の都道府県で、調査していないところはなくなった。地質図を作った場所は、何か我が家のような親しみがあり、その土地を理解したような気がする。
 土地を理解すると、美しい自然環境はどこにあり、自然災害がどこで起きそうかも見えてくる。皆さんももっと地図を読んで欲しい。